

関守稲荷神社 藤原定家歌碑
関守稲荷神社には以前紹介した2つの歌碑の他にも皆さんも一度は聞いたことのある人物、藤原俊成の息子、藤原定家の歌碑も建てられています。

桜花 たが世の若木 ふり果てて
須磨の関屋の 跡うづむらん
定家
(いつの世に誰が若木を植えた桜なのだろう。今はすっかり古木になり、散り果てて須磨の関屋の跡を埋めている。)
作者:藤原 定家(ふじわらの さだいえ)
藤原定家は、鎌倉時代初期の公家・歌人で、代表的な新古今調の歌人として、後世の歌に極めて大きな影響を残した人として、多くの人に知られています。
今でもよく知られている2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進しました。
また、教科書にも載っている『小倉百人一首』を撰進した人としても有名です。
定家自身の作で百人一首に『来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』という一句はみなさん一度は耳にしたことがあるんじゃないでしょうか?
その他にも、定家は新古今時代の優れた6つの私家集、六家集の一つである拾遺愚草という私家集を作りました。
関守稲荷神社の境内には豊川大明神や車折大神など多くの神々が祀られ、須磨の歴史を語るには外せない場所です。
今世まで残る須磨の歴史を感じたい方は、祖先の残した軌跡を辿って見てはいかがでしょうか?
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桜花 たが世の若木 ふり果てて
須磨の関屋の 跡うづむらん
定家
(いつの世に誰が若木を植えた桜なのだろう。今はすっかり古木になり、散り果てて須磨の関屋の跡を埋めている。)
作者:藤原 定家(ふじわらの さだいえ)
藤原定家は、鎌倉時代初期の公家・歌人で、代表的な新古今調の歌人として、後世の歌に極めて大きな影響を残した人として、多くの人に知られています。
今でもよく知られている2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進しました。
また、教科書にも載っている『小倉百人一首』を撰進した人としても有名です。
定家自身の作で百人一首に『来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』という一句はみなさん一度は耳にしたことがあるんじゃないでしょうか?
その他にも、定家は新古今時代の優れた6つの私家集、六家集の一つである拾遺愚草という私家集を作りました。
関守稲荷神社の境内には豊川大明神や車折大神など多くの神々が祀られ、須磨の歴史を語るには外せない場所です。
今世まで残る須磨の歴史を感じたい方は、祖先の残した軌跡を辿って見てはいかがでしょうか?
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関守稲荷神社 藤原俊成歌碑
今回は以前紹介した関守稲荷神社に建てられているもう一つの歌碑をご紹介します。
場所は神社の外側。藤原俊成歌碑と次回ご紹介する息子の藤原定家の歌碑が建てられています。

作者:藤原 俊成(ふじわら の としなり、永久2年(1114年) - 元久元年11月30日(1204年12月22日)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。『千載和歌集』の編者として知られています。
指導者としても、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子定家をはじめとして、門下に寂蓮、藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出しました。
関守稲荷神社に立ち寄った際には此方の歌碑にも訪れてみてはいかがでしょうか?
場所は神社の外側。藤原俊成歌碑と次回ご紹介する息子の藤原定家の歌碑が建てられています。

聞き渡る 関の中にも 須磨の関
名をとどめける 波の音かな
俊成
名をとどめける 波の音かな
俊成
作者:藤原 俊成(ふじわら の としなり、永久2年(1114年) - 元久元年11月30日(1204年12月22日)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。『千載和歌集』の編者として知られています。
指導者としても、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子定家をはじめとして、門下に寂蓮、藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出しました。
関守稲荷神社に立ち寄った際には此方の歌碑にも訪れてみてはいかがでしょうか?
関守稲荷神社 源兼昌歌碑
今回は関守稲荷神社に建てられている須磨を題材にした歌碑をご紹介します。
この神社には須磨の関の守護神といわれている稲倉魂神が祀られています。
須磨の関は古代、畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重要視され、「天下の三関」と呼ばれていた伊勢・鈴鹿関、美濃・不破関、越前・愛発関の次ぐ重要な位置として開設されました。
しかしその場所は明らかになっておらず、明治の初め頃、現光寺の裏手から彫り出された石柱の側面に「川東左右関屋跡」と刻まれていることから、現光寺付近にあったのではないかと考えられています。
その石柱は現在、関守稲荷神社の境内に置かれています。

そんな神社には須磨を題材にした歌碑がいくつも建てられています。
この記事ではその内の一つである百人一首で知られている源兼昌の歌碑をご紹介します。

鑑賞:須磨の関守とは、上記で説明した須磨の関の番人のことです。波音に混ざって聴こえてくる冬の季語でもある哀調が篭った千鳥の鳴き声から、冬の夜に目覚めている看守の孤独と、旅人の旅愁を漂わせています。
作者:源 兼昌(みなもと の かねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人です。諸歌合や、〈堀河次郎百首和歌〉など、堀河院歌壇・忠通歌壇の作者として活躍しました。
<アクセス>
JR・山陽電鉄「須磨駅」から北東徒歩8分
この神社には須磨の関の守護神といわれている稲倉魂神が祀られています。
須磨の関は古代、畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重要視され、「天下の三関」と呼ばれていた伊勢・鈴鹿関、美濃・不破関、越前・愛発関の次ぐ重要な位置として開設されました。
しかしその場所は明らかになっておらず、明治の初め頃、現光寺の裏手から彫り出された石柱の側面に「川東左右関屋跡」と刻まれていることから、現光寺付近にあったのではないかと考えられています。
その石柱は現在、関守稲荷神社の境内に置かれています。

そんな神社には須磨を題材にした歌碑がいくつも建てられています。
この記事ではその内の一つである百人一首で知られている源兼昌の歌碑をご紹介します。

■源兼昌歌碑
あはぢしま かよふちどりの鳴く声に
いくよねざめぬ 須磨のせきもり
(淡路島へと飛ぶ千鳥の鳴き声で、須磨の関守は何度夜に目覚めたことだろう。 )
あはぢしま かよふちどりの鳴く声に
いくよねざめぬ 須磨のせきもり
(淡路島へと飛ぶ千鳥の鳴き声で、須磨の関守は何度夜に目覚めたことだろう。 )
鑑賞:須磨の関守とは、上記で説明した須磨の関の番人のことです。波音に混ざって聴こえてくる冬の季語でもある哀調が篭った千鳥の鳴き声から、冬の夜に目覚めている看守の孤独と、旅人の旅愁を漂わせています。
作者:源 兼昌(みなもと の かねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人です。諸歌合や、〈堀河次郎百首和歌〉など、堀河院歌壇・忠通歌壇の作者として活躍しました。
<アクセス>
JR・山陽電鉄「須磨駅」から北東徒歩8分