古代の須磨

古代の須磨古代の須磨

大化改新(645年)と律令の制定によって、神戸周辺は摂津国となり、平安時代に生田、神戸、宇治、八部、長田の郷(里)からなる八部郡となりました。須磨は長田郷の一部でした。
当時の須磨は地形上の問題もあり、あまり田畑も開かれず、浜辺に漁師の家が点在する寂しい地域でした。しかし、畿内への入口という条件から、交通の要地となり、駅家や関がおかれたといわれています。

交通事情としては、須磨の海岸線の一部は磯が荒かったため、山陽道は北へ迂回するルート(鉢伏山~多井畑~塩屋)となっていましたが、平安時代には、荒かった磯も土砂の堆積によって安全に通行できるようになり、山陽道が海岸を通るルートになりました。
平安時代、都からも遠くなく、風光明媚で温暖な気候の須磨は、貴族の隠棲の地とされており、「在原行平と松風・村雨の伝説」や「源氏物語」の舞台にもなりました。


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